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ロシアの農奴制[ろしあ の のうどせい]
「ロシアの農奴制」(ロシア の のうどせい、)では、モスクワ大公国の時代から帝政ロシアにかけてつづいたロシアの農奴制の特徴と展開について説明する。 == モスクワ大公国の時代 == 中世ロシア社会では、秋の収穫を終えた「聖ユーリーの日」の前後に農民の移動の自由が認められていた〔相田(1975)pp.408-412〕。ただし、みずからの領主に対して負債のある場合には移動の権利を行使できなかったため、実際には、多数の農民が土地に拘束されていた。15世紀に入ると、富裕な領主が負債を肩代わりする代償として農民を自己の領地へ引きぬく行為が増加しており、このことは中小領主の農地経営をむしろ圧迫した。15世紀末、リューリク朝のモスクワ大公で「全ルーシの君主」を称したイヴァン3世が農民の移動を制限する「1497年法典(スヂェブニク)」を定めた。これにより、農民の移動は「聖ユーリーの日」の前後それぞれ1週間(計2週間)に制限されることとなった〔栗生沢(2002)pp.104-106〕〔東ローマ皇帝とキプチャク汗をさす称号であった「ツァーリ」を自称するようになったのもイヴァン3世が始まりである。ロシア唯一の君主となったモスクワ大公は、それまでの独立諸公国の君主であった者を貴族としてその支配体制に編入していったが、ここでは、貴族ですら大公の「奴隷」を自称した。栗生沢(2002)p.105〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロシアの農奴制」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Serfdom in Russia 」があります。
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